ばさ……
ふと、耳が聞きなれない音をとらえた。背後へ、音のした方へ振り返る。柔らかく日光を反射する硝子瓶の中には、羽毛に覆われた生物。人魚だったそれは、とうとう鳥へと姿を変えていた。僕はゆっくりと歩みより、相変わらず人間臭い顔をしたそれをうっとりと見つめた。淡い和毛(にこげ)が瓶の中をふわふわと舞っている。
ようやく、僕はそれが生物の進化を辿っていることに気が付いた。それは硝子瓶という胎内の中、羊水に眠る赤子のように。何も知らず、無垢のままに成長していく。鳥になったのであれば、次は哺乳類にでもなるのだろうか? いや、きっと人間になる。僕の中に、唐突にそんな確信、それこそ無条件な希望が生まれる。
ばさ……
考える間にも、それは卵から出たばかりの雛のようにどこかぎこちない動きでもがいている。
僕は無性に愉快になってきた。人に何かを言いふらして回りたいような、ヴァイオリンに合わせて踊りだしたいような気持ち。何故? と聞いてもそんなことは分からない。ある種の親心なのか、また別の何かか。
「訂正、僕は生き返ったらしい。」
ぴい、と。雛鳥が静かに鳴いた気がした。
それは数日後のことだった。幾度か日が昇り、街はうららかな昼になり、夜には月のヴェールが眠りを呼んだ。
僕の予想は大いに裏切られた。雛鳥は立派な成獣になった後、人間になるどころか自らを薄く白い硝子のような膜で覆ってしまった。繭か、蛹か。何にせよそれが虫であろうことは容易に分かった。落胆したのは言うまでも無い。中の薄黒い影を微かな希望の念を込めながら観察するしかない。最も、人魚が人間になるなどという確証はどこにも無かったが。
空は皮肉なまでに青かった。青という色彩が積まれ、閉ざされた円環と成り、視界を埋め尽くす。白い雲がぽっかりと穴を開けていた。
その中に、動くものを僕は発見した。魚の鱗のように鈍く銀光りし、それでいておもちゃのようにふざけたロケットの形をしている。尻から吹くのは、火だろうか。まどろこしい程にゆったりと、無音のままそれは天頂へ昇りつめていく。やがて機体は傾き、放物線を描きながら今度は落下していく。
僕は悟った。これは爆弾だ、と。
とくん。
不意に、蛹の鼓動が空気を伝わる。白い繭の表面をいくつもの青白い筋が這い、脈打っていた。
――何故落とさないんだい?
Kの言葉が脳裏に蘇る。幾つもの光景が、プリズムのように閃いては消えていく。
爆弾が炸裂し、世界が灰色になる――亡者の群れ、僕は落下する、いや落下するのは……誰だ? 嗚呼、亡霊はまだ生きていた、だから醜いのか、女の顔――人魚が嗤うのは幸せだからだ、蛹から羽化するのは少女ではなかろうか? 黄色い風が海から僕を巻き、叫べば、人間が崩れていく……
「何故落とさないんだい? 彼女が爆弾なのに。」
Kは救済者のように僕に告げる。彼は鏡の向こうにいた。僕が映るはずのその場所に、悠然と立ち、僕は机の上に手を伸ばした。Kは人魚を彼女と言った。瓶が指に触れる。冷ややかな感触に窒息する。
ことり、
もはや僕は何も見ていなかった。ただ、中のそれが動いたのが、まるで自分の心臓が脈打ったかのように伝わり、いつかの人魚が意識に蘇り、振り回した腕で僕は瓶を払っていた。ガシャン、と耳に無情なまでに澄んだ音が刺さる。窓へと駆け寄り、首を突き出す。少女が爆弾なら、少女が壊れれば爆弾は……。
あった。まだそれは怠慢な落下を続けている。
「残念だったな。君は飛べない。」
背後からKが宣告する。鏡の中に居るのか、そうでないのか、判別などできない。無意味な声だけが空気を割る。青い空が肺をも塗り潰していく。
そして、爆弾は炸裂した。
――それがいつだったかは覚えていない。僕はこの街に一つの爆弾を落とした。動機、手法、その後僕はどうなったのか。記憶は欠落していた。否、あまりにも曖昧に、どろどろに溶け合って、深い泥沼で見失ってしまった。残っているのは破壊の後の一コマ。それだけが僕がその時を生きていたという唯一の証明。あの時、僕は笑っていたのだろうか? 泣いていたのだろうか?
死に至る病は既に僕を蝕んでいたのだろうか?
Kは何も僕には教えてくれない。
滅びが乾いた風となり、虚空を過ぎていく。僕は独り、地に伏していた。いつかの崩壊と同じ灰色。かつては上から眺めた景色を、僕はただ見上げている。無音の世界に毒の香りを含んで塵が踊り狂う。ビルの群れは残骸となり、鉄骨さえ失った黒い塊を赤裸々に曝している。あれは僕の骨なのだろうか? 僕は生きているのか、それとも死んでいるのだろうか? 地面に張り付いた身体を動かそうという意志など無く、虚無的に、死体よりも虚ろに空を仰いだ。暗い天に光は無く、どこか色褪せている。ふと、ビルだったものの一つ、遠く高い塔から淡い金色が溢れ始め、僕はようやくはっきりと世界を認識した。
ゆっくりと、力無く上げる汚れた指は光に届かない。もっと近づかねば。捕まえなければ。意識を支配し、僕はゆっくりと立ち上がり、光の方向へと歩きだした。破れ、足に垂れ下がる靴を捨てれば、素足に、砂の粒が刺さって痛みが走る。
「まるでお前が亡霊のようではないか。」
背後から誰かの声がする。それは飽和した脳をいとも容易く素通りしていった。
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