そこは砕け散った小部屋の跡。壁も屋根も壊れ、ありとあらゆるものが欠片に還り、色の記憶ばかりを留め煌いている。光に照らされ、全てが仄かに輝く。いや、光というにはあまりにも儚く幻想的だった。退廃へ向かう、爛熟した果実のような残照。
砕けた硝子瓶の向こう、静謐の黄金に包まれ、柔らかく佇む「少女」に、僕の意識は注がれていた。花弁のような肌に繭がそのまま布になったかのような白い服、光に染められた髪はブロンドなのか、それとも薄茶なのか。すべてが霞む。何よりも、その背から生えた透きとおった蝶の翅が僕の目に焼きついた。
言葉を紡ぐことなど叶わなかった。溜息さえも。ただ、切望のような感情が静かに溢れ、僕を埋めていく。やがて、少女がこちらへ蛍石のような薄い緑の瞳を向けた。徐々に金色が世界を覆い、時が止まったようにじっと僕らは見つめあう。彼女があの奇怪な人魚であり、蛹から孵化したものだと、僕は理解した。その顔は微笑んでいたのか、嘆いていたのか、それとも何の表情も浮かべていなかったのか……。
少女は静かに背を向けた。そして、音も無く飛び立つ。上へ、上へ。落下など許されぬように。暗澹としていた雲もまた淵を黄金に染められ、狭間からいくつもの筋を、天使の梯子を落としていた。その割れ目へ少女は消えていく。
少女が完全に雲の向こうへ去ったとたん、輝きが消えた。灰色が戻ってきた。気が付けば、僕は崩れた部屋の真ん中にぽつりと立っているばかり。
嗚呼、もう少女は戻ってこないのだろう。何故僕は彼女を壊そうとしたのだろう? 例えるならあの少女は絵画に描かれる理想像、生まれるよりも前の遥かな過去、あるいは夢のさらに向こうの庭園の存在。決して届かないところにいる。
風が吹く。唐突に湧いた狂おしさが、僕の胸を焼く。
素足に硝子片が刺さり、赤い血が流れ出る。決して届かぬのならばこんな足はもういらないのではないか? いや、この四肢全てが。悔恨、それ以上の渇望。
これは憧憬だ。あの少女を手に入れることなどもうできない。それでも僕は渇望し、骨を焼くような炎に身を焦がすだろう。いや、せざるを得ない。
そう悟った瞬間、今度は果てしない、底なしの絶望が僕を蝕んだ。飛翔したのならば、どうして少女に触れられよう。風が、背を押す。波の音が耳の中に鳴り、反響する。混ざるようにして、醜い人魚の歌声が聞こえた。

不意に足元が静かに崩れ始めた。さらさらと足に絡む砂になり、ゆるやかに僕は倒れていく。底は無いのだろう。風に巻かれて、景色がメリーゴーランドのように回る。徐々に、徐々に加速していく。様々な景色の断片が流星のように通り過ぎていく。
墜落。僕にはもうこれしか残されていない。僕は死ぬ。死の向こうは無なのか、それとも? ならばこの世界にさようならを言わねばならない!
僕があの翅を砕くのだ。今なら両手を広げて全てに是と言おう。
さあ、さようなら! 嗚呼、天使には挨拶をしなければ。こんにちは、その内僕も朽ちて、ばらばらになれば内臓も、この絶望という名の癌に蝕まれる僕も曝けよう。墜落していくのに? いやこれは落下だ。錯乱ならば本望、止まれはしない。この風は油絵の中、あの少女の影から吹いているのだろう! 目眩が、全てを奪い去る。生をこえれば、少女にはまた会えるのだろうか。そう、僕は死に至る病に満たされているのだ。プリズムの光、輪郭を無くした花が脳天に咲く。
 嗚呼、さようなら、さようなら! 全世界にさようなら!



「こうして、青年は終焉を迎えた。めでたしめでたし。
何、墓? そんな興醒めなもの、あるわけがないだろう。勿論、少女なら飛翔していったよ。いや昇天か。少女は爆弾だから……、否、少女だから爆弾なのだろう。憧憬であるが故に絶望なんだ。ああ、だから言っているだろう。青年は終焉を迎えたのだと。死んだかどうかなど問題ではない。
私の名前? 何を突然……。そんなものを聞いてどうする。仕方ないな、では試しに不特定人物Kとでもしておくか。不服そうだな。生憎、私はこの名前が気に入っているんでね。
それにしても空が青いな。爆弾でも降ってきそうだ。分かった分かった、君が望むならもう少し話そうかね、お嬢さん。では、死に至る病について……。」
 



 ――これにて、話を終えよう。
 刹那が刹那であるために。


2010.09

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