僕が部屋へと戻ったのは夜半も過ぎようかという頃だった。とうとう降り出した雨に濡れ、ぐったりと部屋に入った。下を向き、赤い絨毯ばかりを映す視界に、ふと、やたら黒光りしたブーツが飛び込む。見上げればそこには友人、Kの姿があった。瓶の傍に佇み、無感情な瞳で僕を眺める。縫いとめられたように、僕は動きを止めた。
「何故落とさないんだい?」
 Kの声音は異常なまでに優しく、それでいて残酷だった。それは加害者が被害者に向ける憐憫。がん、と頭を鉄球で殴打されたように、不意に夜明けの炎が僕の目に飛び込んできた。ちろちろと燃え、飛び回る。世界が回る、今度は夜の闇の悪魔が絶唱する。
 僕は錯乱していた。最後に全てが歪み、形を失っていった。


これは死に至る病なのだろう。赤いベルベットのカーテンの向こうでは小雨が降り注いでいた。塵を纏い、霧よりも重い粒が視界を覆う。蝕むように、灰色の世界に黒いビルが聳えている。パイプと鉄骨が剥き出しだ。廃墟の匂いを残したまま、それでも人間は確実に這い上がっていた。
いつのことだっただろうか。かつてこの街は破壊された。
「雨を見ると思いだすな。」 濃厚な赤に統一された部屋の隅に寄り掛かり、Kはしみじみと呟く。その視線は無造作に放置された姿見に注がれている。
 Kは僕の友人だ。いつ、どうやって知り合ったかは忘れた。ただ、当然のように僕の前に現れては消える。鍵を掛けたはずの部屋に入り込み、時には人の心まで読んでみせる。友人、と呼べるような対等な関係ですら無いのかも知れない。昨晩、僕を錯乱の中に陥れたことなど忘れたかのようにのんびりと煙管をふかしている。
「覚えているかい、街が壊れた時のことを。たった一つの爆弾で全ては滅びた。そう、たった一つの爆弾だ。あの時の空は何色だったか君は覚えているかい?」
 僕は答えを返さなかった。肘をつき、ぼんやりと瓶を、その中の両生類を観察していた。粗い造りの建造物の一角では雨漏りなど日常茶飯事、その滴は今、硝子瓶のすぐそば、人魚から両生類と成った生物の脇に落ちた。雨垂れの音が時々ぴちゃり、と耳に木霊する。
「君は実に立派だったよ。」
「うるさい。」
 Kが笑った気配がする。僕の中から、人魚だったものへの恐怖は消えていた。ただ、囚われたように見つめる。埒があかないと思ったのか、Kはゆっくりと重い衣を引きずり、こちらへと歩み寄ってきた。
「随分と奇怪なものを拾ってきたな。まるで君みたいじゃあないか。」
「黙れ。」
 僕はこの静かな時間を満喫したい、邪魔はしないでくれ。混濁しかけた意識の表層が、苛立ちにさざめく。
「だから縋るのか、それに。」
 何を言っているのだろうか。全くもって僕には理解不能だった。
「残念ながらそれは希望ではないよ。まあ、どうしようと君の勝手だが。」
 声が遠のく。僕はまどろんでいる、ようやくそのことに気付いた。だがもうどうしようもない。徐々に暗い帳が下りてくる。
「絶望は死に至る病だ。病は翅(はね)をも蝕む。では、おやすみ!」
 そうKが言い残したのを感じたのを最後に、僕の意識はふつりと切れた。



 海辺なのか。暗闇の中、燐光に縁取られた波が寄せ、男が歩む度に花火が散った。花園のように色を放つその上を鱗紛を撒き散らしながら蝶が飛び交う。
「彼なら今頃夢の中さ。昨晩は寝ていないからな。いくら幻想に溺れても肉体の拘束には敵わない。それは人間の残酷な宿命であり、至上の悦びだ。」
「僕」がKと呼んだ男は、蝶達に歌うように話しかけた。ざん、とまた光が弾ける。
「人魚は果たして彼を導けるのだろうかね。」
 そうして、彼は足元に辿りついた瓶を拾い上げる。光を表面に残したそれに蓋は無く、中身も空だ。
「少女が降り立つにはまだ早い。さ少し遊ぶとするか。」
 Kが呟く。それに呼応して次の瞬間、海水から無数の蝶達が生まれ、その身体を覆いつくしていった。
 

 目を覚ました時、人魚は爬虫類になっていた。僕は混乱もせずそれを受け入れた。重い臙脂色のカーテンを開ければ、窓の外に見えてくるのはビルと鉄骨。雨は止み、灰色の雲からは日がかすかに零れている。
 ――人魚の入った瓶が、ゆっくりと、徐々に加速しながら沈んでいく。
 瞼の裏に鮮やかに、幻覚のように浮かぶ。僕はまだ瓶を落としたいのだろうか。
だがそれは一瞬だった。僕は、意味も無く気分が高揚していることに気が付いていた。
「あれを天使の梯子と呼ぶ。」
 日光の筋を示し、人魚に向かって話かける。ペットでも飼っているような気分になったのか。人魚はきょろり、と視線を巡らせ、それは僕の指差す方向を見つめた。乾いた手の爪が、かりり、と瓶を引っ掻く。
「外に出たいのか?」
 人魚は僕のことなど知らぬように、光を見つめたまま。
「僕も同じだ。
「絶望は死に至る病だとは、よく言ったものだ。僕は今なおそれに蝕まれている。この街を壊したのは僕だ。あの時に爆弾を落としたのは、僕なんだよ。
「人々は絶望した筈だった。なのに、ご覧、街が広がっているよ。今となってはもうこんなになっている。騒がしいくらいだ。人間は蛆虫のように湧き出る。ここは廃墟になったのに。いや、人間は復活した。それから、僕は死んだのさ。病は死に至った。」
ふつり、と言葉を切る。開け放した窓を抜け、生暖かい風が潮の香りと共に頬を撫でる。街は活気に満ちていた。人々は当たり前にのように、昨日と今日と明日を見ているのだろう。変化を、より幸福を目指して。

僕はざわめく街を、一人で見下ろしていた。



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