死に至る病
落ちていく、落ちていく、
どこまでも、果ても無く、
落下していく――
不思議な夢を見た。女はそう云った。
――いつものように窓の外を見ていた。友人たちは周りにいて、何か喋っていたような気がする。そんな中でふと気がつくと、青ーい青ーい空に一つ、にょきりと生えたビルの横を、尻から火を噴いたおもちゃのロケットが飛んでいた。煙は放物線を描いていて、やたら細長いそれは丁度落っこち始めるところ。私にはすぐ分かった。それが爆弾だ、と。逃げよう、そう思った目の前でロケットは爆発した。
それで。そう問う僕に、女は首を横に振った。
――あとは覚えていない。目を覚ましたのか、あるいは取るに足らない他の夢を見始めたのか、とにかく記憶が無い。まあこんな時世だから日頃の不安が夢に出たのかもしれない。
笑いながら話を結ぶと、女は席を立とうとした。
――ああ、でも。もしかすると夢の中の私は死んでしまったから先を知らないのかもしれない。
それだけを云うと、女は去っていった。
僕は海辺を歩いていた。暗い暗い昼だった。防砂林も影の中、嵐は近い。砂に足を取られる、風に暴れる自分の髪に視界を奪われる。砂浜は終焉の後のようだ。絶え間なく寄せる波に浸る、光の反射を見つけ、僕は歩みを止めた。屈んで手に取ってみればごくごく普通の硝子瓶。手紙を入れるには大きすぎるそれは密閉され、透かしてみても辺りの風景を歪に通すばかりである。
ざん……。波が砕ける。生々しい潮風が灰色に吹いていく。
不意に軋んだ声が鼓膜を裂いた。両手で耳を押さえても、ケダモノのように、それは頭を割る。絶叫に恐怖した。眩みそうな視界に、瓶が飛び込む、黒い海が表面に写る。僕はそこに女の顔を見た。魚のようにぱっくりと口を開け、肥大した赤ん坊の醜い顔をして、叫んでいる。ぬめり、とその肌が光る。恐怖、これはただの恐怖でしかない、肺も心臓も血管も全てが全て引き裂かれて冷たく煮えたぎっていく。女の下半身は魚で、青緑の鱗が波を被って僕は悟った。この声は人魚の讃歌だ。脳髄にオペラが響く。意識は泡でしかない、白く溢れる。
がくり、僕は砂に伏した。人魚は消え、全ては過ぎ去った。僕は助かったのだ。顔を上げても、浜は相変わらず風を吹かせているだけだ。何一つ、変わらないではないか。
何一つ? いや違う。僕は見た。目の前に転がる硝子瓶を。在るではないか、変化はその中に、人魚はそこに存在している!
小さな人魚の入ったそれを、半ば無意識に僕は拾っていた。
さく……
砂を踏みしめ、立ち上がる。波はまだ寄せる、返す。足跡が僕の後ろに続いていた。
それは異様な光景だった。怪奇な童話のように、人魚は瓶の中に収まっていた。指の不透明な水かきは薄緑色で、水も無いのに、肌も、藻のような髪も濡れている。笑いたくなる程の醜さ。焼き爛れた女のようなそれは微動だにせず、底に座っている。机の上に置いたそれから眼を逸らせば目の前に転がる硝子瓶を。在るではないか、変化はその中に、人魚はそこに存在している!
小さな人魚の入ったそれを、半ば無意識に僕は拾っていた。
さく……
砂を踏みしめ、立ち上がる。波はまだ寄せる、返す。足跡が僕の後ろに続いていた。
それは異様な光景だった。怪奇な童話のように、人魚は瓶の中に収まっていた。指の不透明な水かきは薄緑色で、水も無いのに、肌も、藻のような髪も濡れている。笑いたくなる程の醜さ。焼き爛れた女のようなそれは微動だにせず、底に座っている。机の上に置いたそれから眼を逸らせば目の前に転がる硝子瓶を。在るではないか、変化はその中に、人魚はそこに存在している!
小さな人魚の入ったそれを、半ば無意識に僕は拾っていた。
さく……
砂を踏みしめ、立ち上がる。波はまだ寄せる、返す。足跡が僕の後ろに続いていた。
それは異様な光景だった。怪奇な童話のように、人魚は瓶の中に収まっていた。指の不透明な水かきは薄緑色で、水も無いのに、肌も、藻のような髪も濡れている。笑いたくなる程の醜さ。焼き爛れた女のようなそれは微動だにせず、底に座っている。机の上に置いたそれから眼を逸らせば、物に溢れた狭い部屋が檻のように僕を捕えた。
「……ニテ、原……現在ノ状況ハ……。」
古いラジオが、割れた声で勇ましく報道している。僕は嘆息を漏らした。荒廃した大地の記憶が僕の脳裏をよぎる。
あの時、僕は崩れかけたビルの頂上にいた。磔刑の跡のようなその場所からは、まるで己が世界の支配者であるかのようにありとあらゆる光景を臨むことができた。周りにはかつて人々が住んだ建築物が、骨ばかりになって建っている。その間を亡霊のような人間達がゆるゆると通り過ぎていく。地平線までもが化学的かつ原始的な毒に汚され、全てがモノクロに変わっていた。勿論、僕もまたその毒を浴び、だがそれでも生きていた。
ラジオが突然ふつりと切れる。僕ははっと我に返った。
かち、かち
小さな時計の針の進む音だけがやたらと耳に付く。それしか聞こえない。変わらない部屋のなか、瓶もまた静物画であるかのように微動だにしない。
――あのビルから、瓶詰の人魚を落としたらどうなるのだろうか。
ふと、考えた。
そんなことをして一体何になるのだろう。いくら払おうとしても、一度浮かんだ落下のイメージは何度も繰り返され、徐々にくっきりと、瞼を瞑らずともその輪郭を思い描ける程に浮かび上がる。自らの白い指先と、そこから離れゆるやかに傾く瓶。何故か潮と錆の匂いが鼻孔に広がる。
「馬鹿馬鹿しい。」
思わず、吐き捨てた。こうでもしなければ思考を止められそうになかった。苛立ちに任せ、髪を乱暴に掻く。幾本かの黒い髪の毛が切れ、悪趣味な赤い絨毯の上に落ち、僕は新たな変化に気付いた。
人魚に、足が生えていた。
身体の外へと伸び、尾びれは残したまま、表面に生々しい鱗を付けている。くるり、と今まで動かなかった瞳が回った。その黒眼が僕を捕える。その顔は、例えるなら両生類。
一歩、僕は後ずさった。更に一歩、視線は釘付けのまま、瓶から離れる。壁に背が当たり、ようやく僕は止まる。
その口が動いた。
ぱく、ぱく。
顔の両側に付いた目玉が僕を凝視している。声も無く、薄っぺらい唇が上下に開閉を繰り返す。機械のようにただ、ぱく、ぱく、と。
僕は逃げ出した。狭い部屋を駆け抜け、叩きつけるように扉を閉め、風よりも激しい音が爆ぜた。
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