三 《式石》
―――
病んだ灰色の顔が目の前に見えた。一瞬にしてそれは消え、白い天井が暗がりの向こうに張り付いている。夢に彩られた睡眠から浮上すれば、立ち現れるのはただの白い病室。幻想を殺すべく作られた、無という名の監獄。かつて、この空間によって僕の現実と幻想は削り取られていった。今はばらばらに解体された時間が僕の足元に転がっている。
身を起こせば、頭の血がさぁっと引いて、視界が軽く白くなる。直ぐに元に戻る視覚の代わりに、僕の脳裏には病室とは違って眩しいその白が焼き付く。あの光の向こうにいるのは――女神?
たかが立ちくらみが見せた景色にさえ、僕は気付くと幻想を求めている。医者は言う、僕は繊細な病に罹っているのだと。それは正しい、けれどそこに何の意味がある?
部屋を見回し、ふとスチールデスクの上の紙に目を止める。机の縁に、几帳面なまでに平行にして置かれた紙束。今まで無かった筈のものに、思わず僕の目は釘付けになる。遠目にも歪な文字で埋め尽くされたそれは、人の手垢と汗が染み付いて劣化し、ぼろぼろになっている。何度も何度も捲られ、読まれ、握り締められた痕跡だ。一体誰がこんなことをしたのだろうか。まさかあの老医者ではあるまい。あのシリコンの顔が見せるのは不吉の色だけだ、それは小瓶に詰められた化学汚染に等しい。では一体誰が?
……僕の意識に黒い髪の残像が写った。それは長く、蛇のように蠢き、鞭のようにしなる……。
素足のままスチールデスクへ近付けば、白い床と触れ合う肌はぺたぺたと気持ちの悪い音を立てた。紙を改めて手に取れば、それは劣化しながらも大切に扱われていたらしく、何処かよそよそしい。面一杯に、びっしりとインクで書かれた文字は跳ね、回り、奔放に跳ね回る様は狂気めいてもいる。書かれているのは文字と数式。始めこそ普通の証明でしかなかったそれは複雑に組み上げられ、紙を捲るごとに何かを目指して昇り詰めていく。紙にはやがて記号ばかりになり、何の意味を持たないそれが何かを創造しようする。無数に書かれた三角、四角、螺旋、円環……。
無我夢中になって読み進め、とうとう文面の最後に行き着く。
「脳髄α-Σ式・変換公式 タイプ21-5」
そこに記された文字を見た瞬間、僕の意識は絶頂に達した。殻を破り生まれてくる緑色の羽の幸福、青い目をした不幸せ。僕はようよう思い出した、この演算式は僕が生み出した一つの「階段」だ。最後に記された演算式、その脇には僕のサインがある。
僕は顔を歪めた。目を細め、頬を引き締め、唇の端を引きつり上げ、笑ってみせる。そう、笑った。一体いつ以来のことだろうか、僕が苦悶以外の表情を浮かべたのは。これが正確な笑顔と言えるか、そんなことは関係ない。笑いたいから笑うのだ。
僕は紙を手に取った。こんなものは今となっては取るに足りない存在だ。プロトタイプ21は、既に今の僕の存在それ自体がその矛盾を示している。だから、僕はそれを散り散りに引き裂き、捨てる。過去の自分の創造物を至極丁寧に、慈しみながら。
あああああ、ああああ。
叫びが声が漏れた。笑うだけでは物足りない、溢れで出た感情は炸裂する。千切れた紙がひらひら舞い落ちる毎に五色の海が駆け巡る、病んだその世界は何と香しいことか! 病室の白が隠していた認識、全ての悪夢と自由はここに詰めこまれている。それらを閉じ込めていた病室の白、そこには落ちた芳香と新たな階層の幻影が垣間見える。
紙を全て破り捨てる。枯れた花弁が降り積もったようになったその上を踏みしだき、僕は白い部屋の中心に立った。天井に埃の如く溜まった闇を見つめ、そこに七色の花を夢想しながら新たな演算式を組み立てる。
1+1=6(それは完全な数である)
6=1+2+3=13(それは不幸の数である)
i+φ=Ω ○→6=13=i ∞=Σ=0≠○ ○△∞=??……
脳髄Σ式が導くのは現実の解体と創造、式は数字ばかりでは成り立たない。式はもはや数学などではなく、魔術の呪文に等しい。徐々に見えてくる新たな絶頂、求めるべき終点。唇から呪いのように式を吐き出し、計算を続ける。
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