だが、唐突に僕の思考は止まった。警報音のような耳鳴りがし、演算がふつりと回転を止める。幻想は靄となって消え、ただの病んだ白い病室が現れる。
何かが欠けていた。何かが。ぽっかりと抜け落ちている。理性的な判断ではなかった、頭のなかを巡っていた夢がその欠落を訴える。何が足りない、どうして埋まらない。突っ立っていた足を動かし、僕は部屋のなかをぐるぐると回る、回る。
記憶にその答えを求めれば、病院に入る前の朧なそれが濃い土の匂いと共に現れる。
最初にこの変換式を思い付いたのは一人散歩した雑木林の小道。その一角で、死んだ黄金虫の虹色の羽に、黒光りする小さな虫が大量に群がっているのを見た時だ。午後の傾いた黄金色の日の光が無性に空しかった夏のひととき、じっとしていても汗が纏わりつく暑い日のことだった。苔むして湿った岩の合間に群がる影と煌めき。黒い虫が黄金虫を覆い尽くす様は進行する病のようであり、しかし酷くのどかでもあった。黄金色の七色に輝け体はゆっくりと消えていく。僕はそれを延々と飽きることもなく見つめていた。日が暮れ、辺りが暗い影に沈み込むまでずっと。その頃には黄金虫は跡形もなく消え、代わりに僕のなかでは最初の演算式が生まれていた。
最初の演算式。あれは一体何を求めたのだっけ? 部屋を速度を緩めて回りながら、考える。一つ立ててはまた壊しを崩しを繰り返す内に少しずつ式は意味を変えていた。それがどのような変化なのかは分からない。
僕はふと足を止めた。目の前には竜の頭骨が置かれている。病院とはまた違う白に、異物感を覚える。手に取ればずっしりと重いそれは、何よりも竜が死んでいるとうことの証明だった。暗い暗い眼窩には濁った瞳さえ入らない。その闇は、黄金虫を食らう黒い虫の群を克明に思い出させる。竜の骨は妙に記憶に馴染み、不可思議な親和性を覚える。
サァー……
耳鳴りがしていた。電波を捉えないラジオのノイズにも、海の寄せては引く波の音にも聞こえる。頭に張り付くそれは煩わしかった。耳を覆うそれは心地よかった。
サァー……
ぼんやりと目を閉じかけた僕の目に竜の骨が写った。その口が微かに開く。整然と並んだ牙が覗き、骨の竜は笑っているようにも見えた。無いはずの喉から空気が流れ出し、か細い音が聞こえる。
ひゅう……ひゅう……
ゆったりとした呼吸のリズムが生み出され、ノイズ音と混じりあう。密やかで軽やかな海辺の音色が聞こえる。それに合わせ、竜の眼窩から闇が溢れた。いや、違う。てらてらと光を反射する黒い背中、群を成して竜の骨の上を歩き回るのは小さな虫達。黄金虫を食らったあの黒い虫が目の前にあった。土と汗の匂いが押し寄せ、背中に暑い日差しを感じる。
2010.10.07
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