二 《詠美》
秋の空は美しい。他のどの季節よりも高いから、世界が広く見える。冷ややかな空気と溶け合って透き通った青に染まっているのも魅力的だ。からっと晴れた高い空ーーその下を妙齢の女が急ぎ足で歩いていた。
美しい女だった。艶やかな黒髪を後ろで一つに結い上げ、細身のコートに身を包んでいる。しかしその表情は、晴れ上がった空にそぐわず険しかった。
せっかく美しい日なのだから、と町に繰り出している大勢の人々の合間を縫うように、女は歩を進める。ひしめく人間の生み出す熱気が女を包む。人混みの苦手な彼女は内心、この状態に辟易していた。
どうにか人の波を抜け出た女は、ある建物の前に立った。
病院である。
外壁は排気ガスで薄汚れており、一見周りの建物と見分けがつかないほど地味な佇まいをしている。しかし建物の前面最上部に刻み込まれた赤十字は、そこが確かに病院であることを主張していた。
女は建物の中に入るとわずかに顔をしかめた。彼女は病院の白い色が嫌いなのだ。衛生のためなのか何なのか知らないが、こんな体温のない色に囲まれては患者も苦しいだろうに、と思う。
カンカンと音を立てて階段を上り、女は三階にある病室のうちの一つのドアに向かい合った。軽く息を詰め、右腕をそろりと上げる。
コン、コン。乾いた音が転がっていく。
「こんにちは。入りますよ?」
返答はなかったが、女は部屋へ入った。
中にはほとんどものがなく、質素を通り越して生活感がない。大きくも小さくもないスチールデスク、素っ気ない椅子が二脚、壁にぴたりとつけられたベッド。それだけである。南側の壁に開けられた小さな窓は鉄格子に覆われている。そしてここでもやはり、感情を持たない白が空間を塗り込めていた。
ベッドには男が一人横たわっていた。否、倒れ込んでいたと言った方が正しい。男はうつ伏せで斜めにベッドに横たわっており、その右足は下に落ちている。
女は不自然な男の姿に一瞬身を強ばらせたが、寝ているだけだと分かると緊張を解いた。
「もう、またふっと眠ってしまわれたのね。お疲れなのかしら」
女は小さな声で優しく呟く。木の笛のような、深く柔らかい声だった。
女は男を起こさぬようにそっとベッドに押し込み、胸の辺りまで毛布を掛けてやった。眉間に少し皺が寄ってはいたものの、まずまず穏やかな男の顔を見て微笑む。椅子を引っ張ってきてベッドの横に据え、女はそこに腰掛けた。
男は眠り続けている。痩けた頬と骨ばった腕が悲壮感を漂わせる。その姿を見ているうちに、女は深い悲しみに浸食されていくのを感じた。
(この方は、こんなところにいらっしゃっていい方ではないのに)
心の中で小さく叫ぶ。顔を上げれば白が目に入る。ああ、なんて忌々しい色! いっそペンキを持ってきて、壁も天井も塗り替えてやりたい。心が落ち着くと言われている緑がいいかしら? それか太陽のようなふんわりとした黄色。ーーいいえ、やっぱり青。緑がかった青、透き通った青、たくさんの青を混ぜてまるで海の中のようにしたらいい。この方もきっと、喜んで下さる。
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