[PR] この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

 一 《式石》


じょう じょう じょう
沖つ白波の散りぬる薄明
沖つ鳥共の啼きぬる群青
じょう じょう じょう
打ち鳴らせし潮の茫々たるかな
砂を染むは涙の如し
波間にあらはる妹の白き首
じょう じょう じょう
うつそみの人の身 破り捨て生まれん
いまひとたび花よ綻べ
我が精霊(しょうりょう)の薄羽はひらける
じょう じょう じょう

じょう じょう じょう……



「今のところ経過は順調ですな。」
 ペン先が紙を引っ掻き、インクを残す音が絶えることなく続く。老医者の皺だらけの手がカルテに記していく線は蔦のようにくるくると回り、細かい上下を繰り返す。理解不能な言語。理解しようと脳を働かせれば黒い線は歪み、肥大化して僕の精神を病的な印象でもって覆い尽くす。視界一杯で蛇のようにのたくりまわるその線に次第に目が回り、座っているはずの体がふわふわととおぼつかなくなる。腹から胸を焼け付きそうな嘔吐感が襲う。
「深く考え込まない方が良い。貴方の病は実に繊細なものです。」
 僕の様子に気付いたのかそうでないのか。老医者は鬱屈した声で喋りながらカルテを取り上げ、裏返して書類の上に重ねる。後にはスチールデスクの鈍色が残される。広がるグレー・ゾーン、感情を失った虚無の色。
 視線を彷徨わせれば、失われたカルテの代わりに今度は書類が像を歪め、うねって見えた。灰色のスチールデスクに白くいそれらは妙に拡大される。真っ白。音は何も聞こえない。僕のなかで感情も思考も凍えつき、固まり、無心にその錯覚を見る。
「申上げた通り、私めにできるのはあくまで軽い治療もどきまで。全ては貴方次第。だから、余り見入ってはなりませんよ。」
 老医者の手は僕の前から書類をどかし、それらをも自らの黒い鞄にしまいこんでしまった。膨張した印象は失せ、薄暗い部屋の光だけが後に残される。
 ようやく、僕は医者の顔を見る。老医者は僕を見ようともせず、自らの黒皮の鞄を漁っていた。時折覗くのは書類や羽ペン、赤い魚の頭部、中身のない大きな瓶など。眼鏡をかけた血色のない顔には彼が経て来たはずの何十年の時はなく、刻まれた無数の皺はただ皮膚の褶曲にすぎなかった。仮にこれがシリコンで出来た人間の模造品だと言われても僕は驚くまい。ただその皺は死の幻影に憑かれているように、表情にシリコンの無機質さとはかけ離れた、不吉な暗い影を落としていた。
 ゆらゆら、ゆらゆら。肋骨の空洞のなか、僕の心臓は振り子となってぼんやりとした安堵と不安定の間を行き来する。医者が鞄のなかからなにかを取り出した。何もかも片付けられたスチールデスクの上に、重く柔らかな音を反響させながら置かれる。
「……骨?」
「はい。」
 僕の呟きに医者は微かに笑みを浮かべて答えた。その表情が彼の内面から剥離しているようで、シリコンの顔に一層の薄気味悪さと奇怪さを漂わせたことは言うまでもない。
 僕の目の前に置かれたのは獣の頭骨だった。細長いそれは草食動物を思わせ、だが短剣のように伸びた牙と鋭い歯が、何よりも鋭い二本の角がそうではないことを物語る。
「竜の骨です。」
「竜……?」
「はい。」
 言われてみれば、確かにそれは竜の頭骨にも見えた。銀色の翼で蒼窮を駆け、女神を守護する賢者。或いは水底に眠り時に竜巻を昇る、蛇にも水の神。僕はその仮想の美しい姿を脳裏に思い浮かべるが、目の前の骨は歪みもせず骨のまま、静かに鎮座している。ぽっかりと開いた眼窩だけが虚ろを湛え、見つめればその影が深まっていく気がする。
「これは“収束点”を表します。貴方の治療にはとても良いものでしょう。」
「貰っても?」
「ええ。どうぞ貴方のお好きなようにしなされ。ですが一つ、約束願いたい。」
 医者が僕をじろりと覗き込み、僕は頭骨からようやく目を上げる。
「決して飲んではなりませんよ。」
 おかしな言葉だった。果てもなく無意味であり、僕はただその言葉に既視感とも違和感ともつかぬずれを感じ、自らの記憶の海に潜り込む。


次のページへ