「分かりましたかね?」
「……ああ。」
「よろしい。」
僕のおざなりの返答に相手は果たして満足したのだろうか。呆然としていた思考が引き戻され、ようやく僕のなかで疑問が回り出す。医者は古びた懐中時計をポケットから出し、時間を確かめると帰り支度を始めていた。
「それではまた明後日お会いしましょう。どうぞお大事に。」
老医者が緩慢な動作で立ち上がるのを、僕はただ見るしかできなかった。黒い大きな鞄を引っ掛け、老人は白い扉を開ける。金具が擦れる音、それに似合わぬ滑らかな動きで扉は開き、老医者はその向こうへと吸い込まれていった。戸が締まれば、後には空虚に埋もれた白い空間が残される。
そして全ては静寂のなか、時計の秒針だけが相も変わらず動いている。
、 、 、 、 。
時計の針が秒を刻む音は白い砂漠の流砂にも似て、止どまることなく動いていく。淡々と進んでいく。その砂の白亜とは同じ白でも正反対の暗く白い壁、それが僕を捕らえている。広い病室の天井はさして高くもないのに、上に上るにつれ闇が濃度を増している。そこに何かがいると主張せんばかりに。
改めて、僕はスチールデスクの上の竜の頭骨を眺めた。かつては純白だったであろう表面は色褪せながらも汚れててはいない。ただ無機質な光の元神聖な眩ささえ湛え、降り積もった光陰を沈黙のままに示していた。それは万物の概念さえも歪ませるこの「病室」で、唯一確固たる座標として存在している。一つだけ、歪さを残してはいたが。
「飲むな、か……」
医者の不可解な忠告が、脳裏で反復された。一体どうやってこれを飲もうと言うのか。まさか丸呑みはあるまい、砕いて水に溶けということなのか。そういえば医者は砕くことは禁じなかった。
何はともあれ、これは僕のものなのだ。終わりも始まりも見えぬ、「病室」での日々で初めて認められた所有物。飲みさえしなければ良いのだ。
僕がそれを手に取ろうとした瞬間、不意に視界が回った。同時に失われる平衡感覚、白い壁が歪み、スチールデスクが反転する。「就寝」の時間を体が告げている。今日はいつもよりも多くの刺激を受けた。僕の病んだ脳はその記憶を、イメージを扱い切れず、機械さながらにふつりと意識を保つことを止めてしまう。
ぐわんぐわん。
首の無い人間が笑っているのが歪んだ視界の合間に見え、三つ編みにされた髪の毛が地面をのたくるのが見える。
ぐらぁりぐらぁり
脳はもう白い壁さえ壁と認識できなくなった。溺れる、溺れる。海が迫っている、逆転している。太陽のはんらん。
爆発する幻想のなかから現実を見つけ出し、どうにかベッドへすがりつく。さようなら! さようなら! 切り裂き魔の大合唱。現象世界の反比例と象の群の嘶き、嗚呼もう僕の脳髄は混沌に耐えられない。
白い、シーツへ飛び、込み、その白が、迫り、広がり、近付き、白が。
《暗転・脳髄の変換・Σ式の解体と配列》
……黄色い花の綻び、
…………石壁
……望月はまんまる
…………やまない潮の満ち引き
塩辛い涙の匂い
誰かが夜の岸辺を歩いていた。影が黒いのは宵闇のためではなく、その人が身に付けた服が黒いから。長いスカート、ちらと覗く細い足、曲がった腰。それは喪服を身に付けた老婆だった。傘を片手に握り、海に半分程沈んだ巨大な月にそのシルエットを浮かばせながら砂の上を歩く。肥大化した月の元、砂は淡い黄金色の輝きを得て流れる。老婆が足を出す度にさらさらと星屑が微笑む音がする。その上に被る波の音。
老婆の姿は酷く寂しげであり、だがそうではなかった。一歩進む度に上下する体は苦しげであり、だがそうではなかった。きっとそんな感情は砂に埋もれて今は眠っているのだ。ここの空気はどこまでも淡泊で塩辛く、心地がよい。
老婆はゆっくりと歩いている。その小さな影が、月を前に更に小さく見える影が愛しい。どこまでも敬虔な恋慕、叙情的な時間。
波は引き、また寄せる。
硝子の瓶は流れつき、貝殻は海底の青い記憶をささめきあう。
波は引き、また寄せる。
波は引き、また寄せる。
2010.9.21
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