第一章 双海凛


 トランクを引きずり、地図を片手に街の中を歩いていく。お祖母ちゃんの家がどこにあったかなんて忘れてしまったから、お母さんに地図を描いてもらった。
 それにしても畑が多い。ここは一応首都圏なのだが……どうやらドのつく田舎と言っても過言ではないようだ。でも、こういうところは嫌いじゃない。都心で生まれ育った僕には新鮮に感じられる。
 地図のとおりに細い路地を通り抜ける。そして目の前に現れたのは――
「うわぁ……」
 大きな萱葺き屋根の家だった。門の造りも立派なもので、時代劇なんかに出てきそうだ。近づいていくと、
「あれ?」
 門のところに女の子が一人立っているのに気づいた。女の子もこっちに気づいて、くるっと振り返る。高い位置で一つにまとめられた黒髪に、こっちをじっと見つめる切れ長の黒い瞳。和服を着たらさぞかし似合うだろう。僕よりも少し年上に見える。
「誰?」
ぼおっと見ていたら、いきなり女の子に話しかけられた。そっけない言葉なのにそう感じないのは、柔らかい声のせいだろうか。
「俺? 桑原って言うんだけど、お祖母ちゃ――」
 できるだけ表情をなくして、つまらなそうに言う。人と関わるのがあまり好きではない僕の会話法だ。こうするとみんな、必要以上に話しかけようとはしなくなる。そう思っていたのに、どういうわけか女の子の反応は全く違った。
「あ、お祖母ちゃんのお孫さん? なんだ、早く言ってくれれば良かったのに、ほら、入って入って」
 急に表情が明るくなったかと思うと女の子は言葉をさえぎって話し出し、次の瞬間にはもう門を開けている。何なんだ、この子。入ってって、おばあちゃんと一緒に住んでいるのだろうか。こんな子が親戚にいたっけ?
「ほら、早く」
 びっくりしている間に女の子はもう玄関の扉を半分開けて、こっちを向いて手招きをしている。混乱したまま、僕は中へと入っていった。

   ‡ ‡ ‡

「よく来たねぇ、健太」
 お祖母ちゃんにお茶を出された僕はカチコチに固まっていた。だってそうだろう、ものすごく久しぶりに会った人の家で初対面の人とお茶を飲んでいるのだから。
「うん、やっぱりおいしい」
 そういって目の前で初対面の人――さっきの女の子はお茶を飲んでいる。あんまり美味しそうに飲むものだから、僕も口をつけてみた。
「……美味しい……」
 驚くほど美味しかった。何だかほんわかとして優しい味。
「そうかい、そりゃよかったよ」
「驚いた顔すりゃ可愛いのに」
 お祖母ちゃんがからからと笑い、女の子はにやっと笑みを浮かべる。女の子の笑い方じゃないだろう、それ。再びむすっとした表情を浮かべた僕はそこで気づく。
「名前」
「え?」
「名前、何」
そっけなく言っているというのに、女の子はにこっと笑いかけてきた。どうもこの子との会話のリズムが掴めない。
「ふたみりん双海凛。凛って呼んでね。ここの向かいの家に住んでるよ」
「あ……そう」
 やっぱり親戚じゃなかったか。いまさらながらそんなことを思う。何を話せばいいのか分からなくなって黙り込み、僕はお茶をすすった。やっぱり美味しい。
「ほれ凛、お兄さんが待ってるんじゃないのかい」
 僕の代わりにお祖母ちゃんが凛に話しかけた。凛はうなずいて帰ろうとし、途中でくるっと振り返った。
「じゃあね、健太!」
「……健太?」
 楽しげな凛の背中を見ながら、呆然として呟く。僕を名前で呼ぶ人なんて親戚しかいなかった。少ない友達はみんな僕のことを「桑原」と呼んだ。
「いい子だろう? 十三歳だから、確か健太と同い年だね。仲良くしてやっておくれよ」
 凛を見送りに行っていたお祖母ちゃんがいつの間にか戻ってきていて、隣に座った。ちなみにここは縁側だ。夏の暑い日だけれど、ここに吹き込んでくる風のおかげでそんなに辛くない。
「同い年なんですか。もっと年上だと思いました」
「あの子は下手な大人よりよっぽど大人だからねえ」
 どういう意味ですか、と尋ねたけれどお祖母ちゃんは答えてくれず、代わりにふっと笑って空を見上げた。きれいな青空。
「健太。ぶすっとしてないで笑いんしゃい。ここには怖い人はいないよ」
 ボソッとおばあちゃんが呟いた言葉に、僕はぎくりとした。どうして分かった? ほとんど何も話していないのに。お母さんから何かを聞いたのだろうか。いや、まさか。
 あわてる僕を見て、お祖母ちゃんは微笑んで言う。
「あんたに昔何があったかなんて知らないよ。だけどね、あたしの目はごまかせんよ。そんな面下げてる人間の心のうちくらいは分かるのさ」
 ……あってほんの数時間なのに、この人は僕の心の内を見抜いたのか。
「とはいってもね、そう簡単なことじゃないさね。時間かけてほぐしていくのが一番だよ」
 優しくて、でもきちんと芯のある声。強い人の声だ。それは体に染み渡っていくようで、緊張も少しずつ解けていった。
「ありがとうございます」
素直に声を出せるのはこの家にいるからか、それともこのお茶のおかげだろうか。
「その敬語もおやめ。こんな老いぼれに使うことはないさ。……ところで、健太」
 おばあちゃんが少し顔を背ける。どうしたのだろう。
「なんだい、その……悠は元気かい」
 悠というのはお母さんの名前だ。仲が悪くても、やっぱり気になっていたのだろう。確かにこの人は不器用なのかもしれない。
「うん、元気だよ」
 それから二人でいろんな話をした。両親の話、東京の話、いろいろなことを。降り積もる話と一緒に。空の雲も流れていった。


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