幻燈 夏
小舟に乗って僕は流れていくのだ。大きな、大きな河を。底からは狭い空が見える。否、それは空では無く霧だ。辺り一面が仄暗く、閉ざされている。木が軋み、櫂が散らす水の音だけが耳に届く。
――おかえり、おかえり
声が、薄い意識の中にそっと木霊する。舟を漕ぐ黒い外套の男は、蝋人形のようにただ静かに動いていた。
――おかえり、おかえり。
嗚呼、僕はこの声を知っている。でも誰なのだろう? 声は水を含んだ空気の中に、同じ響きで繰り返し続ける。
そうだ、今は夏だ。早く、摘み取らねば……。腐る前に。
徐々に視界が暗くなる。端の方から、少しずつ。眠りにつくように、別れを告げるように。脳裏に浮かぶ赤い果実。夏の日差しに、艶やかに熟していたっけ。頭から外套を被った舟漕ぎが僕を振り返った。その顔には白い仮面。目の穴以外は何の模様も無いそれは陶器なのだろうか。指先に霧の粒子が纏わりつく。
やがて、僕の意識はふつりと途絶えた。
たしか、きっかけは甥が持ち込んだ種では無かっただろうか。庭とも呼べぬ、塀と縁側の間に気づけばその鉢がぽんと放置されていた。日ごと日ごとに茎を伸ばし、夏の盛りの日の下に、ある種の毒々しさを伴って赤茄子は薄ら青い実をつけていた。
「随分と立派になっていますね。そろそろ摘み取られてはいかがです。」
「いいやまだまだ、十分に熟れてからが美味しかろう。」
そんな会話を彼女と交わした記憶もある。蝉の声に眩暈を起こすような暑い日だったはずだ。僕らはただいつものように、縁側に腰かけて話していた。
彼女は清楚可憐な女性だった。物腰、趣好、気質、一つ一つが慎ましく、かといって決してか弱くは無い……、むしろそれとは裏腹な芯の強さを持っていたと言えよう。間違っても世辞ではない。だからこそ僕は彼女に惚れたのだ。最も、彼女が僕のことをどう思っていたかは分からなかったが。僕がどれほど彼女を愛おしく思っていたことか! 陽炎のような記憶の中でもあの横顔はくっきりとした輪郭を持っている。
これはまたある別の日の会話だ。少し涼やかな夕時、風鈴のちりんちりんという音が実に心地よかった。
「赤茄子は欧州ではトマトと呼ばれるそうなのですね。」
彼女は手元のうちわをいじり、僕はぼんやりと眩しい空を見上げていた。
「ああそうだ。何だ、知らなかったのか。」
「いいえ、そういう訳では無いのですが、ただ近頃では誰もそう呼ばなくなったと思いまして。」
「敵性語だからね。仕方あるまい。」
言ってしまってからはっとなった。彼女にとって敵など無かった。……彼女には外国に友人があったのだ。長らく我が国に住んでいたが、もう随分と前に帰国した。それきり連絡は一切無い。この時勢下、仕方のないことではあったが。
案の条、彼女は俯いて黙り込んでしまった。僕は今更何も言うことなどできず、庭を眺めていた。
赤茄子、ことトマトの実は仄かに色づき始めていた。かつては毒があると恐れられていた、という伊太利だったかの歴史が思い返される。今となっては僕にとって毒では無いか……、やつあたり交じりにそう考えれば尚更苦々しい。いっそこ、今すぐ千切り取って烏にでもくれてやろうか。
結局のところ、僕は自分の非を棚上げしたかったのである。そんな思考を止めたのは彼女の声だった。
見ればまだ幼い甥が飼い犬を追いかけ回しているではないか。
「ほら、お止めなさい。シロが可哀そうでしょう。」
そう言うと、僕のことなど振り向きもせずに彼女は駆け出して行ってしまった。先刻の落ち込みようなど嘘のようだ。子供の威勢の良い笑い声が耳に障る。僕はその光景を見ることしかできなかったのだ。
―恋は罪だよ、青年。
嗚呼、貴方は見えぬ顔で嘲笑う。僕だって知っているというのに、何を今更。所詮人間には腐敗しか残されていないのだ。ただ蝕まれていくばかり。僕はもう落ちてしまったのだろう? たわわに実る楽園の木から。
――恋えば恋うる程に、実は爛熟する。そして、やがては、弾けるのだよ。君はただ朽ちて消えていく。それだけだ。
――おかえり、おかえり。
二つの声が被さって寄せては返す。これは救世主なのか? 波が揺れる、水がゆらゆら揺れる。
彼女の死に顔はよく覚えている。炎に焼かれて死んだのだ。さぞ熱かっただろうに、苦しかっただろうに。僕はその痛みを良く知っている。赤い夜だった。
――おかえり、おかえり
ふと、その声の中に彼女の声が混じっていることに気付き、僕は跳ね起きた。底の浅い小舟は傾く。船頭はただ、僕の足元に立ったまま。だが、それと同時に声もまた途切れた。唐突に静寂があたりに満ちた。
ぴちゃん。
水滴が、落ちる。それだけ。
僕は、仮面を見上げた。
「彼女の元へ連れて行ってくれ、頼む。」
仮面は白かった。無感情な陶器は、何も告げはしない。
「知っているんだろう。もう一度会いたいんだ。」
やがて沈黙が音を持ち、耳が痛む。霧に囲われたまま舟は止まっていた。
不意に視界がぐるり、と反転した。少ししてから自分が男の足によって舟の縁から今にも落ちようというところに押し付けられていることに気付いた。
――君が殺したというのに。
男の仮面が剥がれおちる。フードの中は暗い穴。そこには顔が無かった。仮面の向こうは空だったのだ。
もう一度視界が回り、僕は頭から水の中へと落ちていた。
赤い赤い火。夜空が焼け、家が焼け、彼女も焼けた。彼女はあの時、生きていた。倒れた木の柱の下で血を失ってその顔は青ざめていた。救おうと思えば救えただろうに! 逃げる必要などどこにもなかったのに。彼女は、僕の名を呼んだではないか。
……そう、名を呼ばれたのだ。その瞬間、僕は無性に恐ろしくなったのだ。何か触れてはいけない禁忌に触れてしまったような、闇に見つめられているような……。
――おかえり、さようなら、こんにちは。
水中では幾つもの挨拶が交わされる。どこからか、静かな唸りのような声が延々と伸びていく。僕はその底に生い茂る濁った海藻の中から、幾つもの手が伸びていることがあるのを見つけた。藻が絡みつき、不自由な腕を盲人のように動かしている。僕の体はその中心へと向かって吸い込まれていくようだった。言いようのない眠気が襲いかかって来る。水が徐々に鈍い水銀のような重さを持つ。僕は瞼を落とした。
それは夏の日だった。燦燦と日光が目眩のような眩しさで降り注ぎ、蝉の声が耳を覆う。彼女が見つめる先には赤い実が幾つも成っていた。やがて青年がその傍に立つ。二人は笑いながら収穫を始めた。鮮やかな色彩が輝く。
二人は気付くことなど無かった。その陰にひっそりと落ち、割れて爛れた一つの真っ赤な果実を……。
2010.09
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